高校生からの質問2

 避難生活2

5 ウクライナにいた時に、食料はどうやって調達していたのか。戦争中、どうやって食べ物を獲得しているのか。
(1) パン屋さん、レストランなどが3か月分の食糧を備蓄していた。食料は、そこから配給されていた。
(2)基本的には配給によっていた。たまに、警報が鳴り止んでから、近くに一か所だけコンビニが営業していたので、配給食糧の足しにするためにスナック類を買った。このコンビニが混み合うことはなかった。ただ、仕入れはなかったので商品が全部なくなったら営業を止める予定であった。
(3)歩いて10分ほどにあった大きなスーパーは営業していた。このスーパーには商品が供給されていた。そこまで往復で20分。買っている時間を含むと3,40分はかかる。その時間を費やしてまで行く気持ちにはならなかった。
6 避難所で、1日どんな生活を過ごすのか。
(1) Wifiが設置されているので、1日の大半はネット情報を検索していた。警報が鳴り止んでしばらく様子を見て、自宅に帰りシャワーを浴びたこともある。
(2)食料が配給されてくるが、食欲はわかなかった。
7 他国に逃れてきたウクライナの方々は、どのように生活しているのか。(金銭や住んでいる場所)
(1) 隣国ポーランドは、最大時で300万人の避難民を受け容れた。当初は、大規模避難所を設置し、無料アパート、ホームスティなどを割り振って生活支援をしてきた。交通機関を利用するにあたり、ポーランド他EU内は無料で移動できた。また、医療費も無料であった。しかし、仕事に就けた人の割合は少なく、収入を得られないためウクライナに戻る人も多かった。
8 自国から離れた人が困っていることは何か。
(1)現実的な問題として、仕事がない、金がない、言葉が分からない、子供の教育など。
(2) 精神的な思いとして、早く故郷へ帰りたい、なぜ隣国にいなければならないかという運命への思いなど。
(3) 将来的な展望に関して、将来に希望がない、これからどうなるんだろうなど。

現地の今
9 私たちと同じ世代の学生の人たちは、今どうなっているのか。
(1) 国内の避難、国外への避難ともにオンラインで授業を受けている。
(2) 今年は、7月~8月に大学の入学試験(HMT)がオンラインで行われた。
10 現地は、どのような状況にあるのか。
(1) キーウでは、一日に2度ほど空襲警報が鳴るがほぼ平常の生活に戻っている。スーパーなどの小売店も通常営業している。
(2) キーウ郊外の各市は建物やインフラなど被害が大きく、キーウ他に引っ越す人も多くいる。
11 今のウクライナの人の1日のすごし方
(1) キーウでは、通常の生活に戻っている。つまり、仕事をして、買い物をして、外を散歩してという生活をしている。
(2)戦争というイメージは、全国民が逃げまどい、防空壕に入っている姿を思い浮かべる。しかし、太平洋戦争中の名古屋大空襲の最中も、周辺各市では空襲に気をつけながら仕事をし、普段の生活をしていた。
     ※下の写真は、太平洋戦争中の日本の様子。記事には「1945年6月8日、大阪空襲の翌日には大勢の通勤者が十三大橋を行き交っていた」とある。




12 ウクライナの文学や音楽などの文化
(1) ウクライナ語といえば詩人タラサ・シェフチェンコ。タラサ・シェフチェンコはウクライナ語の存在を世に知らしめたとして功績多大である。
(2) コサックは、勇敢な戦士として世界にその名が知られている。
(3) クリスマスソングの「キャロル・オブ・ザ・ベル」は、とても美しい曲なので、Youtubeなどで聞いてほしい。ウクライナの音楽家ミコラ・レオントーヴィッチが1914年に作曲した。ウクライナ語でシュチェドルィックが原題。

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